2013年御翼7月号その3

海の武士道(敵兵を救助せよ!)――駆逐艦「雷(いかずち)」工藤艦長

 一九四二(昭和十七)年三月二日、日本海軍駆逐艦「雷」がインドネシアのスラバヤ沖を哨戒行動中、重油が流れ出た海面に大勢の将兵が漂流しているのを発見した。 前日の日本帝国海軍との交戦で沈没した英国艦隊の将兵達で、ボートや瓦礫に寄りながら海上を漂っていたのである。 その数は四百名を超えていた。「雷」の工藤俊作艦長(海兵五十一期)は、敵潜水艦の音響の有無を再三に渡って確認させ、その上で、「敵兵を救助する」と号令した。この海域は、米潜水艦が常に日本の船を狙っており、実際、前日には日本の輸送船が撃沈されていた。また、ジュネーブ条約によって、捕虜や病院船を攻撃してはならないことになっていたが、現実には、日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」は、米軍B24爆撃機によって撃沈されている。『艦長はいったい何を考えているのだ!戦争中だぞ!』と批判の声も出た。 だがこうした批判の声を沈静化させたのも工藤艦長のリーダーシップと人徳だった。普段から工藤艦長は艦内での鉄拳制裁を一切禁止し、兵・下士官・将校を分け隔てなく接し、人望を集めていた。そして、『敵とて人間。弱っている敵を助けずフェアな戦いは出来ない。それが武士道である』との工藤艦長の命令に、日本の将兵達は自らも海中に飛び込んで敵兵422名を救助したのだった。英海軍の士官を甲板に集め、工藤艦長はこうスピーチした。 『貴官達は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。』と (“You had fought bravely. Now you are the honoured guests of the Imperial Japanese Navy.”)そしてディナーを振る舞い、翌日ボルネオ島の港で、オランダ病院船に捕虜として全員を引き渡している。英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』としている。 それが敵兵である自分達を、戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだから、英兵達の感激は当然と言えた。
 元海上自衛隊の幹部が書いた本『敵兵を救助せよ!』に、工藤艦長とキリスト教との接点があった。工藤艦長は幼少の頃、かつて米沢で起きた事件を祖父母から口癖のように語り聞かされていた。明治二十七年、上杉神社前夜祭の時、英国聖公会の女性宣教師ミス・イムマンが公園で伝道中、何者かに投石されて重傷を負い、片目を失明した。この三十二年前、生麦事件が発生しており、山形県知事は国際紛争になることを恐れて病院に日参し、犯人逮捕に乗り出した。ところがイムマンは「たとえ一眼を失っても千人を啓蒙できれば本望です」と言い、「捜査打ち切り」を願い出たのだ。このことに県民は感動し、犯人も良心の珂責に堪えられず、自首する。その犯人は、興譲館中学四年生の関才(さ)右(い)衛門(えもん)であった。関は後に海軍兵学校に進み(海兵二十六期)、大佐まで昇進するが、終生イムマンに師事し、英国に渡って聖公会の洗礼を受けている。この出来事は、工藤の生涯に大きな影響を与えた。
 そして、海軍兵学校は、明治初頭に創立した頃から、キリスト教主義を取り入れている。明治政府の要請に応じ、明治六年に英国から派遣されたダグラス少佐は、英国海軍兵学校の士官教育システムに、キリスト教の教義を取り入れて精神教育を行ったのだ。その後も、明治時代の兵学校には牧師が招かれ、キリスト教講演会も開かれていた。工藤自身はキリスト教徒ではなかったようだが、兵学校に在校したのは大正時代であり、その教育にはキリストの教えがあったはずある。
 戦後、工藤はこの救出劇を、家族にも語らず、一九七九年(昭和五十四年)他界する。しかし、当時救出され、戦後は外交官となった元英国海軍中尉サムエル・フォール卿が「自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。一日として彼の事を忘れた事はありません」と工藤を探し続けた。工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、二〇〇八年、六十六年の時間を経て、フォール卿は工藤の墓前で感謝の思いを伝えた。人生の専門家としてイエス様には、人が本来持っているべき性質、愛、誠実、正義、優しさなどが完全に備わっていた。これらの性質を持つ者が、人々を自発的に同意させる権威を持つのだ。

 

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